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7.パンがコサックダンスを踊っていたことに対する考察 [ドタバタ留学記]

7.パンがコサックダンスを踊っていたことに対する考察

今日は最初の家で私を悩ませていたあるものについての小噺をひとつ…。

それに初めて遭遇したのは、十一月も半ばの事でした。木枯らしが舞い、熱いスープが美味しく感じられるようになり始めた冬の朝、それは台所の真ん中に、静かに横たわっていました。
こぶし大の、濃いグレーのかたまり。
寝ぼけまなこだったこともあって、私は最初それを野菜くずか何かが落ちているのだと思いました。
持ち上げようと触れ……思わず数歩後ろに飛び退きました。
ぐにゅっと柔らかく微妙にふさふさ……。思いがけない手触りに恐る恐る目を凝らしてみて、ようやくその正体に気づきました。

ねずみでした。
しかも死骸。 「ねずみ」という生き物を実際に見たのはこのときが初めてでした。

それまで、私にとって「ねずみ」には2種類の認識がありました。
ひとつは「トムとジェリー」や「ハム太郎」(彼らはハムスターですが)などに通じる可愛い小動物としてのイメージ。
そして、もうひとつは下水道で何千何万という数でうごめく気持ちの悪い存在。
その時横たわっていたねずみは明らかに後者として私の目に映りました。

どうして私の目の前にねずみがいるのか。
百歩譲って元々家のどこかにねずみが住みついていたのだとしても、どうして彼らの巣の中ではなく台所の真ん中で息絶えているのか……。

様々な思いが頭の中を渦巻き、ねずみを触ってしまったというあまりの事態に、私はしばしの間叫ぶことはおろかその場から動くことすら出来ず、床に足が張り付いたごとくただ立ち尽くすばかりでした。

何をねずみごときで大袈裟な、と思われた方、確かにヨーロッパではねずみなんてそう珍しいものでもありません。
しかもここはチーズ王国オランダです。ねずみにとってはパラダイス。遭遇しない方が不思議だとも言えるでしょう。

でも、私は蜘蛛やカメムシに絶叫し、ごきぶりなんか目にした日には床に足をつけることもままならず一日中ベッドの上で震えているような人間なのです。
虫たちの何倍も大きい「ねずみ」は私にとってあまりに強烈すぎました。

――私は一体どうしたらいいのだろうか。
床に張り付いた足をなんとか引き剥がしたものの、私は困惑しきってしまいました。
そのまま放って置きたいところだけど、それで彼(または彼女)が自動的に移動してくれるなんてことはまずありえない。
結果やはり私がなんとかしなければいけないのだ、ということを漠然と理解しました。

もう近づくのも嫌だったけれど、だからといって小ねずみ一匹にわざわさ誰かを呼ぶというのもあまりにも情けなく、私は勇気を振り絞ってそのミミズのようなしっぽをつまみあげました。ティッシュを10枚ほど使ったにもかかわらず、ほのかに弾力を持ったしっぽの感触はしっかりと指先に伝わってきて……。庭までの数十秒、気が遠くなりそうでした。

やっとの事で庭に辿り着き地面に穴を掘ると、そこに死骸を埋め、側に咲いていた花も申し訳程度に飾りました。哀れな小ねずみの冥福を祈るとようやくほっとして、逃げ帰るように部屋の中へ駆け込んだのでした。

 

しかし、話はこれで終わりではありません。彼らはその後もたびたび私の前に姿を現し続けたのです。
ある時は台所の片隅で、はたまたリビングの真ん中で、朝起きると彼らは冷たくなって横たわっているのでした。

一言ことわっておきますが、私の家はけっして不潔な環境ではありませんでした。2日に一回は隅々まで掃除機をかけたし、食べ物を置きっぱなしにしていたこともありません。
それでも彼らは1ヶ月に一度の割合で死骸として現れ、小ねずみの墓は増えてゆくのです。

夜中私が寝静まったのを見計らって巣から出てくるも、厳しい寒さに耐え切れずに息絶えてしまうのでしょうか?
死んでいるのはやせ細った小さな子供のねずみばかり。段々そんな彼らに同情心が芽生え、可哀想だなと思うようになりました。
よくよく見ればその短いグレーの毛並みだってくるりんとしたしっぽだってそう気持ち悪いこともない。
むしろ愛らしいくらい……とはやはり思えませんでしたが。

結局私はその後、訳あって引越しをしました。新しい家ではもうねずみを見ることはありません。
でも、今でもごくごくたまに彼らの事を思い出すことがあります。
夏も近い今の季節、もうきっと寒さに凍えることもないでしょう。元気でいるといいな。そう思います。
――とは言いつつも、やはり今度の家には住みつかないでほしい、と切実に願っているのが正直なところでもあったり。
麗らかな日差しが眩しい日曜日、今日も念入りに掃除をしている私なのです。

余談

チーズ王国オランダでねずみはどこの家にもいるものだということを知ったのは、その後しばらくしてからのことでした。
私が目にしていたのは常に冷たくなった彼らでしたが、とある友人はちょこまかと動き回る姿をもよく見かけているそうです。
また別の友人は毎朝戸棚の中のパンが少なくなっていくのを疑問に思っていたところ、ある朝そのパンが自ら飛び跳ねているところに遭遇したといいます。
(後で確かめたところ、中身はねずみに食べられて見事に空洞だったそうです)

うーん。ディズニーのアニメを彷彿とさせるエピソードです。


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6.部屋探し [ドタバタ留学記]

6.部屋探し

日本にいるうちから開始していた部屋探しですが、いよいよ本格的に行動を始めました。
まず私は学校を頼ることにし、学生オフィスに足を運びました。
がしかし、というよりやはり、思うような結果は得られず申し訳程度にいくつかの不動産を紹介されただけでした。
実はこの時、学校の斡旋で入れる物件として十時まで楽器演奏可能な寮のような巨大アパートがあることを知ったのですが、入居リストは一年待ちの状況ということで断念。それにしても学校がもっと早くその情報をくれていれば前もって登録していたのに,と不満に思いましたが、時すでに遅しです。数ヶ月前に登録しておき、しっかり部屋を確保しているヨーロッパ人の同級生たちを目の当たりにし、やはり日本のように遠くにいては実際は何も情報が得られてなかったのだと痛感しました。

学校関係の物件が見つかれば万々歳だったのですが、まぁ期待はしていなかったしと気持ちを切り替え、次は日本にいるうちにピックアップしていたいくつかのツテ(掲示板などから得た、個人的な下宿や賃貸の募集)に連絡をとってみることに。
日本でもやりとりはしていたのですが細かい部分、ピアノが搬入可能か、などの情報を得ることはやはりメールや電話では難しく、とりあえず到着後連絡を、と約束していたのでした。ネットでの募集、楽器店からの紹介の他、学校にもいくつか張り紙があり合計して十数件の情報を得ていたので、すべて当たってみればいくつかはいい物件が見つかるに違いない、と期待をかけていたルートだったのですが……信じられないことにこれが全滅でした。

まず大部分は、「もう他の入居者がきまってしまった」との事。日本から電話したときにはまだ空いていたはずなのに、と苦い思いをしましたが仕方ありません。
運良くまだ空いており、実際部屋を見るところまでこぎつけた数件のアパートもピアノを弾けるという条件をクリアすることはできませんでした。
「見つからないねー」といいつつも、心の中ではなんとかなるだろうと呑気にかまえていた私もここまできてようやく本気で焦りを感じ始めました。あんなにたくさんリストアップしていたものがことごとく外れだったのです。
賃貸物件の週刊誌が何冊もあり音大生用のマンションもたくさん存在する日本が、どれほど恵まれた社会であったか改めて実感し、甘い気持ちでいて部屋を見つけることはここでは不可能なのだと思い知らされました。

並行して進めていた不動産めぐりでも成果はあがりませんでした。厳密にいうと、楽器可の物件が数件あったのですがすべて予定金額を大幅に上回る家賃で、かつ部屋数も多く、とても一人暮らし向きではなかったのです。
オランダの家というのは隙間なくびっしりと建てられている場合が多く、実質隣との間は壁一枚。そのため防音効果がほとんどないのだそうです。
そんな中で楽器可の物件となると、どうしても郊外のファミリー用一戸建てになってしまうようでした。

一週間朝から晩まで歩き回ったにもかかわらず未だ何も進展しない状況に悲壮感さえ漂いはじめ、2日後に帰国がせまった父も、自分がいるうちになんとか見つけたいと焦っているようでした。

そんな中ふと入ってきた不動産からの電話。
「北のほうに空き物件が出たので見に行ってみますか?」
との誘いでした。
期待はしていなかったものの藁にもすがる思いで見に行ってみたところ、なんとこれが大正解!
環境の良い住宅地の中にあり、学校まで30分とけして近くはないもののなにより楽器を弾いてもいいというのです。
大家さんも非常に感じの良い方で、迷うことなくその物件に決めたのでした。
今までの事が嘘のようにぽんぽんと話が進み、翌日には入居も可能だとのこと。
苦労した甲斐があったなぁと心から喜んだ私たちだったのですが実はとんでもない落とし穴があった事をこの時はまだ知る由もなく・・・。
焦りと疲れで、一も二もなく決断してしまった安易さが失敗だったのですが、これはまた後でお話しすることに。

父を空港まで見送ったあと新しい部屋に帰ればもうひとり。広い世界に置き去りにされたような不安と、未知なる生活への期待が入り混じり、決意も新たにいよいよ私のオランダ新生活が始まったのでした。


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5.アーノン?? [ドタバタ留学記]

5.アーノン??

嬉しくないハプニングが続き落ち込み気味の私でしたが、びっくりハッピーなハプニングもちゃんと起こってくれました!

オランダ到着して翌日の夜、私達はホテルの向かいの中華レストランに行くことに。
席について注文を一通り終えると、中国人の店員さんがやってきました。
「‘*@#*#~!!!」
何かを伝えたいらしいのですが中国語ゆえさっぱりわからない。何か向こうを指差しているようだと気づき見てみると、その先には、竹の絵が描かれた屏風が。また、よくよく耳を澄ますと
「アーノン、アーノン」
と言っている様子。
「きっとさ、中国語で竹の事をアーノンって言うんだよ。なんでこの人がそれをわざわざ教えに来たのか知らないけど」
そういって適当に応対していると、ふと屏風の向こうの仕切られた場所に、見覚えのある人物が……。
「小野だ~~~!!!」
そう、中国人の彼はサッカーの小野選手が来たよ、と親切にも教えに来てくれたのでした。

しかしよく考えると小野選手もプライベートで来ているのです。落ち着いて食事をしたいだろうに、店員自らお客にばらして回るとは。なんとも気の毒な話。でもそう同情しつつも好奇心のほうが勝ってしまった私でした。
「サイン欲しいなぁー」と言うと
「任せて! 聞いてくるよー!!」
店員の彼はとても嬉しそうに小野の元へ駆けていきました。

それにしてもロッテルダムに住んでいればいつか会えるかもね、と思ってはいたものの、まさか到着二日目にしてお会いできるとは。
デジカメ持って来ててよかった~!!と大はしゃぎの私のミーハーぶりに父は呆れていましたが。

さて、間近で見た小野選手は思ったより小柄でした。が、さすがにがっちりとした体格でかなり筋力が鍛えられている感じでした。
(髪の毛、かなり天然パーマなんだなぁ)
(奥さん、細い~!!)
などきょろきょろしている失礼な私にもかかわらず、小野選手は終始とってもいいひとでした。非常に気さくに話してくれた上、サインにも写真にも快く応じてくれて、私は改めて彼のファンになってしまったのでした。


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4.ホテルでぼったくり!? [ドタバタ留学記]

4.ホテルでぼったくり!?

さて、12時間のフライトを終え無事にオランダへ到着した私達。住所が決まるまでの拠点としてホテルを予約していました。

ロッテルダム駅から徒歩5分以内、学校まではなんと徒歩1分という立地条件の良さが気に入り選んだのは某有名チェーン「○○デー・○○」。 部屋はコンパクトな感じでまとまっており、朝食もまぁまぁ。なにより市内のど真ん中。いい選択をしたと喜んでいたのですが……事件はチェックアウトの日におこりました。

清算のためフロントへ行った私達。宿泊費には問題ありません。事前にネットで予約して確認したレートどおりでした。
「追加料金がこちらになります」
差し出された伝票を見て目が点になりました。電話代合計がなんと千ユーロ!十万円を越す額です。

しかし私には全く心当たりがありませんでした。国際電話の料金の高さ、しかもホテルではそのレートが何倍にもなるというのはもちろん調査済みでした。なので国際電話カード(十ユーロや二十ユーロなど、あらかじめ決められた額のカードを購入し、パスワードを入力してコールするシステム。前払いなので電話代はかからない。)を常に使用しており、市内電話もなるべく短時間で切り上げていたのです。
一体どうしてこんな額になってしまったのか考えても考えても分からない。明細を見せて欲しいと頼み、そこでようやく原因がはっきりしました。ずらーっと並んだ番号の九割はインターネットのものだったのです。

*月*日9時03分 1秒 10ユーロ
*月*日9時05分 1秒 10ユーロ
*月*日9時06分 1秒 10ユーロ
*月*日9時07分 2秒 13ユーロ
*月*日9時08分 1秒 10ユーロ
*月*日9時10分 2分 320ユーロ
*月*日18時29分 1秒 10ユーロ
*月*日18時30分 1秒 10ユーロ


めまいがしました。これがページ三枚にわたって延々と続いているのです。
いくつかの不動産業者とメールでやりとりをしていたため、たしかにホテルで受信を試みました。ただ異常に接続環境が悪く「接続が確立できません」と表示されてしまう。何度も何度もリダイヤルしたことを思い出しました。分刻みで残っている一秒二秒という奇妙な履歴にしろ、その時間帯にしろ間違いありませんでした。

ただ納得がいかないのが接続していないのに加算されていることと、その一秒(分じゃなく)十ユーロ(千二百円!)という前代未聞のレート。普通はホテルだからと高く見積もっても五分程度の接続で百円、二百円のはずです。実際同じホテルに滞在していた友人Mくんの明細を見せてもらいましたが、案の定そのような値段でした。

(完全にぼったくり……)
確信すると共にむらむらと腹が立ってきて、この料金はどう考えても高すぎるとクレームをつけるも、ホテル側は
「それでも、そういう履歴が存在するのだから私達にはどうする事もできない」
の一点張りで埒が明かないのです。

いわゆるアダルトなサービスの番号ならともかく、これは日本のプロバイダーから提示されたれっきとしたインターネットの番号であり、プロバイダー側に問い合わせをしてみても、海外ローミングサービスとしてたくさんの人がその番号を使用しているがそんな話は聞いたことがないという事。ホテル側に問題があることはほぼ間違いないだろうと思われました。

もちろんそのようなトラブルが起こり得る番号を紹介したプロバイダーにも責任の一端はあります。しかし、自腹で何度もこちらに国際電話をかけ、対処に努めようと真摯な態度を示してくれたせいもあり、彼らに対する怒りはあまりありませんでした。それに対してどんなに説明しても
「そんな事言われても、どうしようもない。この番号は高いんだよ」
と反省どころか同情のかけらも見せず、終いには逆切れの対応にまで出るホテル側には憤りを感じざるを得ませんでした。

最後の手段として弁護士である父の職業を明かし、
「日本に帰ったら訴えるよ」
と反撃にでたところ
「じゃあ半額でいいや」
……。

今となって思うと完全に丸め込まれてしまった訳ですが、その時の私達にはそこまでが精一杯。結局半額とはいえ7万近い大金を支払ったのです。

電話代に関しては問題なかったMくんも清算時、トラブルに見舞われました。彼はシングルルームを三日間使用しました。
チェックイン時に三日分の合計金額を確認したところ「百五十ユーロ」と言われ、安くはないもののまぁ出せなくもないとサインをしたMくんだったのですが、なんと彼が合計金額だと信じて疑わなかった「百五十ユーロ」は一泊あたりの値段だったというのです。

私と父が使用したツインの部屋が一泊百ユーロで、それより明らかに狭い彼のシングルルームが百五十ユーロとは全く理解に苦しみますが、
「ちゃんとそう伝えたはず」
と言われてしまった以上Mくんは涙をのんで支払うしかありませんでした。
(その他にもMくんが明細をよくよく見たら、飲んでもいないコーラやビールが何故か記されており、
「きっと掃除のひとがこっそり飲んだんだ~!」
と彼は憤慨していました。掃除のひとが飲んだのかどうかは別としてとんでもない話です)

私はそのホテル自体を非難したいわけではありません。日本のようにお客様を大事にし低姿勢で対応する事が海外の常識では当てはまらない、ということです。もし同じトラブルが日本でおこったら間違いなく丁重な謝罪があるでしょう。その感覚のまま海外へ行った私にとってこの事件は少なからずショックでした。もちろん一流ホテルであればレディーファーストの文化を存分に堪能し充分すぎる扱いを得る事もできるでしょう。しかしそうでない場合は、(それが二ツ星や三ツ星であっても、です)私の身にふりかかったようなトラブルが起こりうる可能性が充分にあるという事、そしてそうならないように注意を怠ってはいけなかった事を痛いほどに学びました。

海外のホテルに宿泊する際には、まとめて追加料金を払うのでなく一日ごとにチェックするようにすること、また部屋代のレートはしつこいほどに確認することをお勧めします。


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3.出発の日 [ドタバタ留学記]

3.出発の日

時間はびっくりするほどあっという間に過ぎ、とうとう出発の日が近づいていました。家が決まっていないことを心配したのか最初の十日だけ、父も同行してくれることに。
旅立ちにせっかく覚悟を固めた私にとって、この申し出は正直拍子抜けでした。
「両親と空港で涙の別れ……っていうのが普通だよ」
と断ってはみたものの、
「そうか。もう子供じゃないんだな……」
とそれはそれは寂しそうに呟く父の背中に負け、結局好意に甘える事になったのでした。

父は、私に無条件に甘いのです。3人の子供のうち弟2人にはどちらかといえば厳格な態度を保っているのですが、やはり女の子に甘くなってしまうのが世間の父親というものなのでしょうか。

そうそう、今年のお正月里帰りした時、こんなエピソードがありました。
うなぎが食べたいという私のリクエストで、その日の夕食はうな重。食後、ソファに寝転んで本を読んでいるとなんだかリビングが騒がしい。
「ほんの3.4口分だけ残すなんてもったいないだろう。男なら最後まで食べなさい」
どうやらお重に残ったご飯の、あまりに中途半端な残し方を見かねた父が、弟に注意しているようでした。
「いいか、世界には食べたくても食べられない貧しい子供達がたくさん……」
「待ってよ。それ残したの俺じゃないって」と上の弟。
「ん?じゃなんだ。ゆうちゃんが残したのか?」
「僕、全部食べたもん!」とふくれたのは小学生の下の弟。
「あ、ごめん。残したの私だ。もうおなかいっぱいで」と私。
「……なんだ、お姉ちゃんか」
あっさり父は引き下がり、新聞を読み始めました。

これで一件落着……とはもちろん問屋が卸さず。
「なんで、お姉ちゃんには注意しないのー!!」
「パパはお姉ちゃんしか好きじゃないんだー!!」
と弟達からの猛反撃は至極もっともで、
「いや、お姉ちゃんは女の子だし、二十歳超えた大人だし……」
とうろたえる父なのでした。

私もとばっちりを受け、溺愛している下の弟に
「ふんっ。お姉ちゃんなんか」
とそっぽを向かれ少なからず精神的ダメージを受けたのですが、30分後にはすっかり元に戻ったので一安心。
次の日にはもうすっかり忘れているようでした。
男の子ってなんて単純。でもそこが可愛いところ。
だからこそ父も心置きなく叱れるのだと思います。私も単純ですが、けっこういろんな事をしつこく覚えてたりするので、そこはやはり男女の精神構造の違いなのでしょう。

……とまぁ、かなり脱線しましたが、留学の旅立ちに同行することになったのも、そんな娘に甘い父だからこそ。しかし実際、渡蘭後おこった様々なハプニングで大人の男性の存在は非常に貴重であり、また精神的にもかなり助けられたのが事実です。

そしていよいよやってきた出発の日。

出発前日から空港に隣接されたホテルに泊まり、充分余裕を持ち離陸3時間前には空港内に到着していました。
ちょっと早く着き過ぎたなと思っていた私でしたが、結局搭乗時間ぎりぎりにゲートに駆け込むことになるとは……。

というのも、荷物の制限重量にひっかかり大幅に時間をロスしてしまったせいでした。日本からオランダへ物を送るのは決して安くありません。重さにもよりますがちょっとした衣類や食料を送るだけでも1万円近くかかるのです。それだったら最初にすべて持っていくのが賢いやり方だと、私は大荷物をかかえていました。
衣類に限っても夏服だけでなくセーターやコート類までぎっしり、そのほかにも大量のレトルト食品やらお土産類、楽譜やCDなどなど。
結果私の荷物は最大サイズのトランク4つにボストンバック3つというとてつもない量に達していたのです。
(それでもかなり苦労して減らしたのです。最初はCDコンポやくまのぬいぐるみ、それに物干し(!)まで持っていこうとしており、さすがに母に止められました。現地調達ということは頭の片隅にもありませんでした。到着後、「なんだ、なんでも買えるんじゃない!」とびっくりしました。私はオランダを相当見くびっていたようです)
「これで後から何も送らなくていいはず。私ってばしっかり者!」
と呑気にしていられたのもつかの間、重量制限のことをすっかり忘れていました……。

父とふたり分ではあったものの、それにしても目をつぶる事の出来る範囲を大きく超えた重さであることは明白でした。
本来ならばひとり25キロが限度のところ、なんと私の荷物は120キロ!
「お一人様25キロまでですが特別に30キロまではお積みいたします。お二人で60キロです。残りの60キロは大変申し訳ないですが承りかねます」
常識を超えた重量オーバーの値に顔面蒼白の親子を見て同情気味のスチュワーデスさん。
恐る恐る、いくら支払わなければ尋ねてみてその数字に腰を抜かしそうになりました。ウン十万、桁が違う……。

とりあえず罰金で解決する事が有り得ないと分かったのでなんとか荷物を減らすしか選択肢はありませんでした。
すぐに使うもの、後から必要なもの、としっかり分類しておけば良かったと後悔しても後の祭り。
4つのトランクの中身は、すぐ必要な夏服や楽譜も、当分必要ないコートやレトルトカレーもごちゃまぜという最悪な状況でした。
空港のロビーで一から詰めなおすのはさすがに無理だと判断し、結局比較的重要なものが多く詰められているトランク2つを選び、残りの2つは後から宅配便で送ることにしました。また紙袋を買ってとりあえず重そうなものを機内持ち込みに切り替えました。
それにしても預ける荷物は1キロ単位で厳しく制限するのに、持ち込みは無制限というのはかなり矛盾していますよね。トランクから紙袋に詰めたところで飛行機にのってしまえば総重量は一緒なのに……。でもまぁ、ここでもし手荷物まで制限されていたら困るのは自分なのも確かな事。深く考えないことにし再びカウンターへ向かいました。しかしまだ5キロほどオーバーしており、これには流石にげんなり。もう詰めなおす気力もなく、何より搭乗時間がせまっていました。

結局父の判断でけして安くはないお金を払い、そのまま預ける事にしたのです。それにしても宅配便の分とあわせ予想外の大出費。
ふと時計を見ると、
「大変!搭乗まであと5分!!」
想像していた感動的な旅立ちのシーンはどこへやら……。

すごい量の手荷物を抱えゲートへ全力疾走しながら、出だしからこんな調子で大丈夫かととてつもなく不安になった私なのでした。


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2.留学準備 [ドタバタ留学記]

2.留学準備

私は楽天的で呑気な性格故よくO型と間違われますが、いざ何かに凝りだすととたん完璧主義になり、そんなところはA型たる由縁かなぁと思っています。
(その矛先が滅多に演奏に向けられないのが情けない)

留学する事を2002年の春に決めてから、出発予定の夏まで3ヶ月強。出来る限り万全に準備しようと決意しました。
そうする事で不安を減らせるように思ったからです。

するべき項目は4つ。
★Visaなどを含む渡航手続き
★オランダ入国してからの手続きの情報、必要書類の入手
★学校関係の手続き
★住居の確保

その他にもマエストロから与えられた「課題」も山のようにあり、かつ友達とも別れを充分惜しみたい、語学も勉強して・・と目の回るような日々でした。

普通、上記の手続きは留学案内の本や雑誌を一冊買えば大体網羅出来るはず。本屋さんの留学コーナーにずらりと並んでいるのを私も見たことがあり、早速買いに出かける事にした……のはいいものの、あるのはアメリカ、イギリス、オーストラリアなど英語圏の国の案内ばかり。それに続きフランスやドイツ、中国などが数種類。オランダが一冊もない!!
結局、観光案内を代わりに買って帰りましたが、案の定知りたい情報は載っておらず……。

国ではなく先生で留学先を決めたことに後悔はありませんでしたが、この時ばかりははマイナーな留学先をちょっぴり恨みました。

結局本からの情報が難しいと分かった私が頼ったのはインターネットでした。どうか、情報がありますように……!と祈るような気持ちで検索したところいくつかページを見つけることができて一安心。
ネット上で知り合った親切な方々への度重なる質問攻めの結果、なんとか必要最低限な手続きを終える事ができました。

戸籍、住民票、銀行の残高証明や、これまでのディプロマ……etc、書類をきちんと揃えておく事以外に日本国内でするべき手続きは案外少なく、あとは入国してからが勝負だとのこと。とは言っても今まで書類関係は両親にまかせっきりだった私にとってお役所を行ったりきたり、ハンコをもらいに走り回るのは想像以上に面倒くさく、頭の中はもうパンク寸前。
それでも今回の留学に限ってはすべて自分でやらなければと奔走し、5月終わりに最重要書類「合格通知」を手に入れるとあとは出発を待つばかりとなりました。

ただ、最後の最後まで住居だけは決まりませんでした。「ピアノが弾ける」物件を見つけることは予想を遥かに上回る難しさでなんとか見つかった物件も詳しく問い合わせてみれば
「ドアや窓のサイズが足りず、ピアノの搬入は無理」
「隣人のOKがとれない」
などの理由で次々と消えていきました。
出来れば住所を決めて出発したかったのですが、こればかりは仕方がなく、これも入国後の不動産めぐりに賭けることにならざるを得ませんでした。

補足で言わせてもらえば、学校は全く頼りになりませんでした。一応、空きアパートメントの情報をいくつかくれるものの、すべてが「楽器不可」。
「ピアノを弾ける物件を紹介してほしい」
と再三メールを送っても返事がきたためしはなく、電話しても「担当者」は常に不在。学校を当てにする事は、早々に諦めたのでした。


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1.留学のきっかけ [ドタバタ留学記]

1.留学のきっかけ

いずれは外国で勉強したいと漠然と考えてはいたものの、まだ踏み切れずにいた私が最終的に留学を決意したのは大学2年の終わり。現在の恩師であるA先生に自分のもとで勉強するよう勧められた事が直接的なきっかけでした。

そもそもA先生(以後いつも呼んでいるようにマエストロと記します)との出会いはそこから更に遡る事1年半前。大学1年の10月に東京でマスタークラスを受講した事が始まりでした。日本での恩師、S先生とマエストロは友人関係にあり、S先生の勧めで受講を申し込みました。確か私が弾いたのはプロコフィエフのソナタ7番。高校の卒業試験で弾き、舞台慣れしている言ってみれば十八番の曲だったこともあり、ひどく気に入っていただけたようでした。

後日、「留学しないか」との誘いを受けた事をS先生経由で知り、その有難い申し出に驚きました。ただその時はまだ吹っ切れずにいて、
「少し考えさせて欲しい」
ととりあえず保留にする事にしました。その後も年に2回来日しているマエストロから会うたびに
「答えはでた?」
と聞かれるものの、中々決断が下せずにいました。

留学先を決めるにあたって大抵の場合は、行きたい国や学びたい学校が重要視されますが、私は「誰のもとで学びたいか」が、一番重要だと思っています。特に音楽を学ぶ私達の場合、講義イコール一対一のレッスンであるのだから尚更です。

「有名な音大に入れたはいいけれど先生と合わない」なんて話はこの世界ではざらであり、「留学するならまずは先生を見つける」事は前々から私のポリシーでした。その点マエストロのレッスンは文句なしに素晴らしく、どの注意も共感できるものでした。かつ、彼は私の演奏を認めて下さっているのです。こんな願ってもいない好条件のオファーで悩むなど馬鹿馬鹿しいほどに贅沢だと、今となってそう思いますが、当時私はまだ18歳。「留学」は夢であっても、それは大学を卒業したら考えようというまだ非現実の部類であり、今すぐに、と言われてみて感じたのは期待よりも不安だったのです。

「見知らぬ土地で一人暮らしなんてできるのか」
「言葉も通じないのにレッスンが理解できるんだろうか」
「第一しゃべれないのに生活できるのか」
……考えれば考えるほど心配は尽きることなく。

自慢ではないけれど、私は筋金入りの優柔不断で、ファミレスのメニューひとつにしても真剣に悩む性格なのです。当時の親友も同じような性格で、二人で15分はメニューと格闘した挙句、
「こうしていても決まらないから注文せざるを得ない状況にしよう」
と店員さんを呼んだ上で
「あ、先に言って」
「え、私まだ……」
とお店のひとを困らせるのが日常茶飯事。そんな私が軽々決断できるはずがなく。

そんなこんなで留学話が持ち上がってから丸々一年悩み続け、とうとう翌年の10月再び来日したマエストロに最後通告を出されてしまいました。
「もう待ったはなし! 12月に20歳になったらもう大人なんだからそれまでに返事をするように!」 
いつか保留の言い訳として
「二十歳になったら……」
と言ったことも、そして私の誕生日も、なんとしっかり覚えてらっしゃった……。

悩みました。それまでの人生で一番悩んだかもしれない。両親は私の決断を尊重する、と言ってくれました。
(ただ実際のところ母は行ったほうが私のためになると、父は出来れば日本にいたほうが安心だと、それぞれ思っていたようで、それを感じ取っていた私は更に悩み続けることになった事を彼らは露知らず。)

結局、
「すごく行きたいとは思う。ものすごいチャンスだとも思う。でもマエストロに気に入られ続ける自信も外国で暮らす自信もない」
とうじうじ悩む私を目覚めさせたのはS先生の鶴の一声でした。

「じゃあ、一年たったら自信がつくというの? 自信なんて急につくものじゃないでしょ。まして日本の、同じ環境で暮らしていて。慎重である事は大事だけれども、思い切ることも同じくらい大事なのよ。それにね、行ってしまえばなんとかなるものよ」

若くしてフランスに留学なさった先生の言葉は非常に現実味に溢れており、脳天にスコーンと響くような感じでした。

実際のところ、私の心の奥ではとっくに結論はでていたように思います。今行かなかったら大馬鹿者だ、と。ただひっかかっていたのが自信のなさ。それが、1年経っても2年経ってもおそらくは10年経っても改善するとはとても思えないことを先生の言葉で思い知らされたのです。それだったら若いうちに行ったほうがいいに決まってる。

散々返事を引っ張ってしまったにもかかわらず、留学を決めた事を伝えるとマエストロは大喜びして私を歓迎して下さいました。
「何も心配する事はないよ。yukiは自分の娘同然なのだから」
とまでおっしゃって頂き、あぁ私はなんて幸せ者なんだと改めて実感したのです。

そんなマエストロと出会えた事を、私はこれは運命だったと思っています。大袈裟かもしれないけど。
そして教え子を手放す事を嫌がる風潮が強い中背中を押してくださったS先生に、金銭面その他もろもろの心配をさせず、私のしたいように、と支えとなってくれた両親に、心から感謝します。

彼らの存在がなければ私はおそらく今もなお、うじうじ悩んでいたに違いありません。


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